寿命はあと幾何(いくばく)ほどあるのだろう。
時代は巡り、西暦は2000年を突破。日本の元号は令和となって早5年が経過した現在に於いても、未だ人の寿命は正確には計り得ない。
尤も、老衰による寿命以外にも思わぬ事故や事件に巻き込まれる可能性だってある。今日こうしてブログをつらつらと書き終えた後、コンビニに行く道中でたまたま高齢者の運転するプリウスと曲がり角でゴッツンする可能性だってゼロだとは言い切れないだろう。
“Every man dies — Not every man really lives.”
すべての人は死ぬ――すべての人が本当に生きているわけではない
~ William Ross
§1
人生は選択の連続。「選択しない」という選択もまた選択である。
その選択は極々低確率ながら常に死の可能性を孕んでおり、我々はたまたまその死のルーレットを回避しているだけに他ならない。
ただ、普段からこういう考え方をしていてはあまりに悲観的過ぎる。かといって死に蓋をして遠ざけたとて、生物である以上はいずれ直面するライフイベントであるため無視できない。誰もが見て見ぬ振りなど出来ない。
人生を過ごしていく中で、「そうだなぁ、そういえば○○をしてみたいんだよなぁ」というような欲が生まれる。人間とは何と欲深い生き物なのか。
ある物は金銭・時間などをふんだんに使ったような、贅を尽くした事。
ある物は自分ひとりで行おうにも実力不足か権力不足で達成できない事。
ある物は準備や実行がとても面倒で手間が掛かり、なんとも腰が重くなってしまうような事。
まぁ色々とある。それらをこのブログで消化していけたらと思う。備忘録にもなるし、もしかしたらこれを見る誰かも一緒にワクワクさせられるかもしれない。
これからの人生、やりたいと思った事をいくつ行えるだろうか。
最初はこのブログのタイトルを「死ぬまでにやりたい100のこと」みたいな感じで具体的な数字を入れようとした。
しかし、例えばその100個が3年ほどで達成してしまったら?死ぬのか?それともタイトルを変更して伸ばすのか?と考えた。
逆に100個も達成できないまま、更新が滞ってしまう可能性だってある。冒頭で触れたように、人生は何があるか分からない。明日ですら分からない。
というわけで、とりあえず数の表記はしないことにした。
出来るだけたくさん行えれば、それで良い。
§2
私はこれまでの半生に満足している。
大変な事や辛い事も多く経験した。裏切りや絶縁もあった。あまり不幸自慢のようにしたくないので、これ以上は割愛する。
逆に、他の人が体験していないような、体験したくても簡単には出来ないであろう大変も多くしてきた。ありがたい事に、充実した時間を過ごす事が出来ており、輝かしく華々しい時期もあった。まさに青春を走り抜けたような気持ちであり、いったん区切りをつけた今は余生を過ごしているような感覚だ。
老後と言うには烏滸がましいほどの若齢ではあるが、今既に人生の2周目に立っているような感覚さえある。
そんな感覚に在る今、実はあまりやりたい事が無かったりする。正直パッと100個も無いかもしれない。
それゆえ、このブログの中には「それが本当に人生でやりたかった事なの…?」と首を傾げたくなるような物もあるかもしれない。
それこそ老後の爺さんの享楽を見ているような感覚で暖かく見てもらえればと思う。
未練を残さずに過ごせるというのは幸せな事である。しかし、敢えて欲を呼び覚まし、さらにやりたい事を増やしていこうと思う。
今、何でも出来るような気がしている。
何から行おうか。
人生は夢だらけ、と誰かが謳っていた。